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放流について

 

 放流はどんなものでも美しいもの、あるいは微笑ましいものとして報道されますし、多くの人もそう感じていることでしょう。

 ロマンや夢といったものだけが取り上げられがちですが、非常に多くの問題を抱えています。

 放流といいますと、身近なところでは錦鯉、真鯉などの観賞魚の放流、漁業組合や釣り団体によるアユ、ヘラブナなどの釣魚の放流、よくメディアで取り上げられるところでは、ホタル、サケの慈善的放流、さらにラージ、スモールなどの密放流などが思い浮かびますが、養殖業者やお店からの逃げ出しや、個人での飼いきれなくなった観賞魚の投棄や、水換え時の逃げ出し、なども含めると、すべてのことを放流という表現ではくくれません。

 ここではとりあえず、放流という行為を観賞魚の放流、釣魚の放流、慈善的放流、密放流の4つに簡単に分けて考えていきます。

 まず観賞魚については、コイを例にとりますが、公園内の池や小河川や用水路をしきり、コイを入れる行為は、ご近所の人の目を楽しませたり、エサをあげて楽しんだりするため、全国様々な場所で行われています。ですがここで気になるのは必ずしもコイにあった環境ではない場合が多いことです。コイは比較的強いので一応生きてはいますが、よく見ると傷だらけの場合が多いです。
水深が50センチないような水域ではコイは鳥や獣に容易に襲われ、ちょっとしたことで驚けば、ぶつけて傷を作ります。
小さな用水路を仕切ったぐらいでは、コイの生息に適するはずがありません。
人間の目を楽しませることは結構なことだとは思いますが、魚の性質に対しあまりにも無頓着で人間サイドからのみ生息を強いる、一方的な虐待とすらいえます。
また私有地の非開放的水域でやるならともかく、だれのものでもない開放水域を、さも自分達の所有物のように扱い、コイが及ばす生態系への配慮を鑑みることなく、放流や給餌をする姿勢には怒りすらおぼえます。放流をして満足を得る人間以外は、放流される魚にとっても、その水域にもともと住んでいた生物にとっても、迷惑以外の何者でもありません。

 次に釣魚ですが、以前、琵琶湖産アユに混入する、外来魚、国内移入種の問題が非常に重要と考え、パブリックコメントを通して環境省にご意見を伺ったところ、現在のところ処置なしとの回答をいただきました。
水産魚種の放流に関しては環境省としては規制は非常に困難とのことです。
外来魚に関しては、愛好家はわずが1匹ですら厳しく規制され、処罰の可能性があるのに、水産業者や漁業組合が放つ不特定多数の外来魚に対しては何も出来ない役所には不公平感を感じずにはおれません。
この場合も当然アユ以外の生態系をになう生物には配慮がありません。

 以前、数少ない休みを利用して釣具店で買った市販の網で、静岡県某河川でいわゆるガサガサをしていたとき、突然頭の上で怒鳴り声が聞こえました。「何をやってるんだ」というので私は笑いながら、あいさつするつもりで、これですといいながらきれいなシマヨシノボリを見せました。するとその方は「ここはアユの川だ。いまおまわりが来るから待ってろ」といって帰っていきました。土手に上がると警察の方がいて道具や魚を見せて説明を求められました。
当然違法でもなんでもなく警察の方は比較的理解のある方でしたので事なきを得ましたが、今考えても腹立たしい発言です。
「アユの川」とは?一体どう考えれば勝手にそうしてしまえるのか神経がわかりません。ところがその川ではないのですが、いろいろ聞いてみると結構似た経験をしている方が多いのです。
組合を作り、漁業権魚種を放流すれば、川は組合の管轄化に入るのでしょうか?
不当な私物化としか表現できません。

 慈善的放流はサケを例に考えます。
現在の放流の状況は、非常に大切な部分が抜けています。
まずサケを放流する環境は、サケに適した環境なのかどうかということです。

 もしサケの環境を回復するため、つまり魚道改正や撤廃、水質の浄化などを目的に考えたのであらば、一度に何万、あるいは何十万と放流される魚はほぼすべて人柱ならぬ魚柱ということになるのではないのでしょうか?

 また別の角度からみると「帰ってこいよ」と話かけながら、帰り得ない環境に放しているのです。
近所の荒川を例にとると、秋ヶ瀬取水堰をサケに上れというのは個人的には、完全に虐待だと感じます。
何年もかけて海で大きくなり成熟して川を上ってきた挙句、あの堰にぶち当たるというのは、あまり感情的な言い方は好きではありませんが、かわいそうの一言に尽きます。

魚道整備や、水質改善を待っていたらいつになっても国が動かない。

根本にはこの悔しさがあるのはよくわかります。

ですが、その放流が及ぼすかもしれない、あるいは及ぼさないかもしれない生態系をみんなで意見を出し合い、悪い影響も可能性としては考えられること、また現時点では、決してサケに適した河川ではないという十分な説明が、全く欠けています。

 ほほえましさやいたいけな子供達ばかりが目立つ報道の仕方が多いですが、主役はあくまで人間ではなくサケでありそれをとりまく生態系です。

 生態系というのは、いまや一部の限られた人達が守り奉るものではなくて、みんなでどうにかしていく方向に変更するべきではないでしょうか。

 サケの放流といえば、ボランティアか子供達がすることというイメージですが、このような行為は、社会人である様々の立場、様々な学歴の大人達が、ああでもない、こうでもないと議論することの方が現在の悲惨な自然環境を変革するのに効果があると思います。

 もちろん子供達の情操教育として行うのも、同時にやるほうが良いでしょう。
とにかく一部の人達だけではなく、大人も子供もみんなで変えていこうとしなければ、まず公共事業ありき、予算消化ありきのような現在の体制は崩すことが出来ません。
自然環境は特に感情論になりがちですが、客観論こそ一番大切です。

 客観的に見てサケを放流することが、環境にとって本当に良いことなのかどうか、もう一度再検討するべきです。

 最後に密放流ですが、こちらはあまり考える必要はないと思います。
特に、ため池のような閉鎖的な水域における外来種の威力は誰の目にも明らかです。

 非常に残念なのは、ブラックバスやブルーギルが悪い魚のように世間では思われていることです。悪いのはそれを持ち込む人間であり、彼らのようなスズキ系統の魚はとても愛くるしく、ペットとしての資質に優れています。
逆にペットを平然と放つ人間の方が人間としての資質が劣っているのです。
もちろんあちこちの水域にゲリラ放流する人間は論外です。これに関しては今現在も一部のため池群などは生息地拡大の傾向があります。本来、外来生物法はこの行為を防ぐためにつくられたのですから、すぐに本腰を入れて業者、個人を問わず摘発すべきです。
 河口湖など認められた水域環境から持ち出さず思う存分ルアーフィッシングを楽しめば良いだけです。

 つまり人間が決して野外に放さなければすむ問題なのです。
ただ魚の特質としてバスやギルの他種に与える影響が大きいだけです。

 ここまで主張してきたように錦鯉を放つ人も、アユを放つ人も、サケを放つ人も、バスを放つ人も、錦鯉を近くで見たい、大きいアユを釣りたい、サケが帰ってくるところを見たい、どんなところでもルアーが振りたいという人間の一方的な要求で放流する動機については共通です。あまりにも全体的な生態系に対する配慮が欠けています。

 これらの行為を少しでも良い方向にもっていくためには、「放流」という言葉の定義、線引き、意義を見つめなおし、また新しい環境用語を整理し、啓蒙するなどのことを、我々だけでなく、環境を司る役所や施設なども規制ばかりに固執ぜずにやっていくべきではないでしょうか。


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